少しの間、記憶を失った。
正確に言うと、「立ち位置」を失った。
何故ここにいるのかを不思議に思っていた。
不安になることすらできずにただ呆然としていた。



「そう言われるとそんな感じだったかなー?」
記憶喪失になった人間などそうそういるものではないが、その希少な存在がここにいる。
「ダイの場合は幼児返りって言った方が正確だったよな。」
一生懸命思い出しながら〜という風情でポップが補足する。ラーハルトはその状態のダイを見ていないのだが ヒュンケルの状態とはかなり違うということは理解できた。

「…もしかしたら地雷かもしんないけどさ、あのままでもそんな不都合なかったんじゃねーか?」
おそるおそるそう尋ねるポップに、ヒュンケルは穏やかな笑みで答える。苦笑気味ではあったが、自分を心配してくれる弟弟子には素直に感謝していた。

「俺は不都合ないだろうが、そうなったらそれは今の俺とは別人になるから、問題はどっちかというとお前たちだ」




ヒュンケルは罪を背負っている。
ミもフタもなく言えば、八つ当たりで国単位の大量殺人をしたことだ。彼の直接の仇はアバン1人であってほかの人間は関係がない(実際は仇はハドラーだったわけだが判明するのは15年後である)。幸か不幸か アバンの人格は憎悪するべき劣悪なものとは程遠かった。この点が、同じ「人間を憎む」という理由で魔王軍入りしたバランと一線を画す。
言ってしまえば成り行きで魔王軍に入り、その都合で「人間全体」を忌んだ。多少の誘導があったのは事実だが、少年だったヒュンケルは寧ろその思想の矯正を 積極的に受け入れたのだ。
人間全体が汚らわしいのなら、仇の人格など関係なく憎めるのだから。
それとて、結局は自分が生きる方便でしかなかった。結局は自分が生きたかったのだ。そのくせ「仇討ち」以外の生き方などやりたくはなかった。
どこまでも自分勝手な理由の、大量殺人。
真実を知り、戦闘で打ちのめされてやっと冷静に自分の所業を理解した。以来、咎人として生き続けている。

対してラーハルトは罪の意識などは持っていない。彼と彼の母の受けた迫害は正しく人間全体の暗黒面であるが、それ以前に彼は軍人としての職務で 遂行したという姿勢が強い。恥じることなど何もないというのが彼の持論だ。

そのラーハルトから見ると、ヒュンケルの罪の意識は理解しえないものであるはずなのだが、何故かそう言い捨てるのは抵抗があった。



「記憶喪失から回復すると、その間の記憶はなくなるって言うけど、お前は覚えてるんだな?」
魔法使いとしての性で無意識に雑学を欲しているのか、それとも以前のダイの記憶喪失が未だ苦い記憶として残るせいか、ポップはこの件に関して情報を求める。
「…いやもうおぼろげな感覚の記憶しかない。お前たちと何を話したかももうほとんどわからないんだ。」
取り戻した直後は覚えていたんだけどな、と苦笑して付け加えるのは何かの確信犯か?と穿った1人の人物の胸中は穏やかではなかったが。
「あの状態は本当に別人と考えた方がいいのかもしれないな。今となっては蜃気楼のようなもので、そのうちこのおぼろげな記憶すら消え去っていくんだろう。 なにしろ過去の積み重ねが何もないんだ。状況も判断できなければ行動も選択できない。行動してみて何故こんな行動ができるんだろうと不思議に思ったりもする」
「なるほどねえ…」
バランがダイの記憶を白紙にしたのは理にかなっていたわけだ、と頭の中では続けたものの、口には出せないポップである。ダイの心情を推し量ったのが第一だが、 今この場でそんな言葉を漏らしたらもれなく槍で串刺しにされるのはまず間違いない。

「あのまま長期間過ごしてたら、本当に別人になっちまったかも、ってことか。そしたらお前も普通に暮らせたのかね。想像できねーなー」
「想像したくないの間違いだろう。俺も想像したくない。」
「…いやあのさヒュンケル、それ自分で言うなよ…」
この会話がすれ違った思いやりのなせるものだと気づく者は少なかろうな、とダイもラーハルトも思ったものだが、会話内容の命題には想いをはせずにはいられなかった。 すなわち、「普通に暮らすヒュンケル」である。

「普通に暮らすって、普通に働いて、お嫁さん貰って、幸せに暮らすってことかな?」
ダイがそう言うとき、目が泳いでいたのは、この際仕方ない。
「まず最初が難しいよな。コネで城勤めなら何とかなるかもだけど、そゆ採用で長続きするとは思えないしな。人間常識ねーから他の給金系はまず駄目だ。 第一次産業が無難だけど身体の調子が怪しいしなー」
「お嫁さんはなり手は結構いるよ?エイミさんとか」
「コイツが素直に流されればな」
「うーんそれは難しいかもしれない」
最初の遠慮はどこへやら、ウキウキと語りだすダイとポップに、さすがのヒュンケルも苦い顔だ。
「…人をダシに勝手に盛り上がるな」
「ばっかやろう。人をダシにするから面白いんだ」
ニヤリと笑ってキッパリ言うポップの様子があまりにもおかしくて場は大変和んだのだが、ラーハルトだけはそんな場合ではなかった。


「あのヒュンケル」を「殺したいほど」許容できなかった理由。


そう、あのヒュンケルは、簡単に人間に溶け込む可能性のある存在だった。
もしもあの状態が長引いたら。
おそらくラーハルト以外は戻すことにはこだわらなかっただろう。そしてよってたかって生きる術を叩き込む。所謂「普通の生活」を。
何かの拍子に家族でも持てば確かにもう安泰だ。適当に言った割にはダイの言葉は的を射ている。


その可能性を考えただけでぞっとした。
その時は拒絶の感情に支配されてそこまで思考が至らなかった。何故こんなに殺したいのか解らないまま、目にするだけで溢れる殺意を抑えきれずにいたのだが。


ヒュンケルは、一応人間の身体で出来ている。
だが精神の根底は魔物の本能で構成され、人間の性質とは相容れない部分が実は多い。闘志だの自分に厳しいだのというのは人間語に翻訳した結果である。 実際はそんな生優しいものではないことは、魔に近いものだけが解ることだ。
その上贖罪の意識も加わるため、日常で彼が人と交わることはほとんどない。かつての仲間が何だかんだと彼の存在を求めるから彼らの傍で生活しているというだけだ。

その孤独な姿に、人と魔の狭間に位置する者として共感を覚えていたのは自覚していたが、正直ここまで打ちのめされるとは思わなかった。
これでは依存ではないか、といささか自己嫌悪しながら考え込んだラーハルトである。

「ラーハルトどうした、暗いぞ」
「…お前にそういわれると終わったという気分になる」

覗き込む紫の瞳の奥には得体の知れない闇が沈む。過去を喪失したときにはその影が消えていたように思う。
そして今は以前より影が増したように思えた。
原因不明とはいえ罪を忘れたことを単に責めているのか、それとも更に壊れ始めた兆しなのか、それはわからない。 だが、彼が背負うこの闇こそが、自分をしてこの人間に郷愁めいたものを感じさせるのだとラーハルトは理解した。

「お前、俺の行動は覚えているのか?」
「殺されそうになったことは覚えてるぞ。ここでは言いにくいこともあったような気もするがそのへんはもう思い出せん」
「………(どの辺りまでが本当なんだ…)」


主君の「?」という視線に痛みを感じつつ、改めて親友の姿を眺める。
色素の薄さ。身体を損なったが故の軋んだ動き。何よりも、人でないモノが人の中に生きている不自然さ。そんな「違和感」が目に付いてつい凝視してしまう。
その感覚を勘違いして恋した者もいるかもしれないなと余計なことも考えるが。


…いつまで保つのだろう、この存在は。
長くはないのは解りきっているが、心配をするのはこれが初めてかもしれなかった。



そういえば、とふと思いつく。
自分があの状態のヒュンケルを殺そうとしたのはよく解った。
だが何故わざわざ犯してから殺そうとしたのかは、よく考えたら未だ不明である。そんな趣味は持っていないはずなのだが。

「…深く考えないようにしよう…」
軽く頭を抱えて呟く姿に、その場の誰もが?マークを浮かべていた。


ラーハルトがヒュンケルを完全に「同族」として求めるようになるのは、まだ先の話である。


ラーハルトわかってないのに殺意発散しまくりだよ!と突っ込み入れながら書いてました。ひょっとしてこれって馬鹿か!?それともアホの子か!? (違いは何だよ!)この本の時点ではウチのラーヒュンはどうやったらくっつくのか全然見当もつかない時期だったので、とりあえず自覚前という 線で落ち着かせました。
それにしてもヒュンケルは儚いのか象が踏んでも壊れないのかサッパリわからないなーとしみじみ思います。

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